7年目-2007年- |
前年のシーズン終盤の一軍登録抹消を境に,自身のブログにも微妙なニュアンスの発言がされるなど,何かがあったのだろう。春季キャンプも二年連続西都スタート。ただこの時点では情報は一切明らかになっていなかった・・。 3月に入り,鎌田の地元・秋田の新聞紙上で初めて公になったのが,「右肩鍵盤不全断裂」だったということ。即ちオフ〜キャンプにかけてリハビリに費やされていたことになる訳だ。 ブルペンでの投球を再開し,イースタン公式戦に初登板したのは,ゴールデンウィークも明けた5月8日。その後も中8日,中18日,中9日の間隔で中継ぎとして1イニング投球するのみだった。ただし,内容的には失点0のピッチングが続いていたのは光明であったが,開きすぎる登板間隔に一抹の不安も抱いた・・。 6/21に初の先発登板を果たし3イニングを無失点。7月に入ると,先発として5イニングを投げられるようになるまでようやく回復してきた。 そしてオールスターが終わり,チームが後半戦開幕を迎えると同時に晴れて一軍登録となった。 中継ぎとして6試合連続無失点。8/11の対広島戦(広島)ではおよそ11ヶ月ぶりの先発登板も。8/14の横浜戦(山口西京)では今季初の失点を喫するも,3イニングを1失点で,プロ初のホールドポイントを記録。 8/21阪神戦(神宮)は序盤2回で7−0のリードを奪いながらも,先発・松岡,2番手・田中充の大乱調で4回に7−7の同点に追いつかれる展開。この荒れた試合の3番手に登板。田中の招いた4回のピンチは何とか抑えるも,続く5回の先頭打者・矢野に逆転本塁打を打たれる。結局この一発がこの試合の決勝点となり,今シーズン初黒星。 ただしこの試合以降も主として相手にリードを許している場面での登板ではあったが,チームの最終戦まで一軍に帯同し,22試合の登板。0勝1敗3ホールド,防御率1.16の成績でシーズンを終えた。故障によるリハビリからのスタートを考えれば,よくここまで復活したと言えるだろう。むしろこの防御率が示しているように,最下位に沈んだ原因である壊滅状態の中継ぎ陣の中で,何故終盤を任せるセットアッパーとして起用されなかったのかが不思議であるくらいだ。 来季は監督以下投手コーチも代わり,中継ぎとしての適性も見極められつつも,貴重な先発候補の一人でもある鎌田の起用法も見直されるかも知れない。 高津や石井一の退団で,気がつけばチーム生え抜きとしては年齢的に河端,石井・藤井・花田に次ぐ位置にきている。それだけ投手陣も若手が増えてきたということだ。もはや優勝の味を知るものも少なくなってきた。リーダー的存在として投手陣を牽引するようなポジションに差し掛かってきている。来季はそれに相応しい活躍を期待したい。 |
6年目-2006年- |
秋季キャンプで中継ぎ転向指令も,春のキャンプはプロ入り6年目にして初めて西都で迎えることとなった。 春季教育リーグでは5イニング無失点と,中継ぎとしての結果を出し,オープン戦終盤にようやく一軍復帰を果たした。結果こそまずまずであったが,開幕はファームで迎えることとなる。 中継ぎとして連日ブルペンで待機し,登板するスタイルもすっかり定着してきた。 ところが,交流戦期間中の6月,一部スポーツ紙上に「鎌田,楽天へ金銭トレード」の文字が躍る.後日談としては,古田監督から「君は必要な戦力だから、もっと頑張れ」と励ましを受けたようであるが,その数日はファンとしてとてもヤキモキさせられた。 オールスターを終え,後半戦に突入した一軍では,その最初の試合前,中継ぎ・抑えとして活躍してきた木田が練習中打球を目に当てるというアクシデントにより登録を抹消を余儀なくされる。代わりに昇格したルーキー高木も,ローテの関係で先発抜擢されることとなり,8/1に不調の高井に代わり中継ぎ補充として実に2年ぶりの一軍登録を果たした。 初登板はその高木がプロ初先発をした試合.3番手としてマウンドに上がると2イニングを0に抑えていく。3イニング目のマウンドに上がろうとすると広島を突如激しい雷雨が襲い,試合は降雨引き分けコールド。その後も2試合中継ぎとしてビハインドの展開ながらも,キッチリと相手を0に抑えていた。 早大の先輩・藤井が精彩を欠くピッチングが続き,二軍落ちを命ぜられ,苦しい先発の台所事情となっていた8/13の横浜戦の先発マウンドに上がったのはなんと鎌田だった。2004/9/3に、同じ横浜で先発し敗戦投手となり、それ以来中継ぎにまわされてきた地での思いがけない先発登板。結果は5イニングを見事無失点でチームも勝利。2004/8/20の阪神戦(神宮)以来、実に723日ぶりの白星を挙げた。中継ぎのつもりで一球一球丁寧に放ったピッチングの成果だった。 翌週8/19の阪神戦は4回に突如乱れ敗戦投手となるも,8/27帯広での広島戦で再び5イニング無失点の好投。リリーフ陣がリードを守りきり2勝目を挙げる。 9/3の広島戦は勝利投手の権利の懸かった5回に8球連続ボールという不用意な走者を出したところで降板・・・その走者を中継ぎ陣に返されてしまう。敗戦投手こそ免れたものの,以降藤井・川島という先発陣の復帰もあり,当初のリリーフに廻ることに。 9/27の巨人戦では味方打線の大爆発もあり,中継ぎ投手としてラッキーな3勝目を手に入れる.結局13試合の登板で3勝1敗,防御率5.06という成績の2006年であった。シーズン途中のトレード話から一転,後半は実に2年ぶりとなる勝利を挙げ,チームとして必要な戦力であることを実力で証明してくれた。 シーズン終了後,同期で立命館大からドラフト1位入団した平本学が戦力外通告を受けた。同年のドラフト2位である鎌田にとっては何か感じるものがあったに違いない。平本の分まで,まだまだプロとしてやっていかなくてはならない。 |
5年目-2005年- |
オープン戦初登板でソフトバンク打線に2イニング被本塁打2を含む4失点でノックアウトされて以降,二度と一軍のマウンドに上がることが出来なかった. イースタンでは先発ローテの一員として毎週先発登板していたものの,成績も3勝7敗と振るわず,7/5の楽天戦以降約2ヶ月間登板も無くなる.故障が癒え,9月上旬に先発復帰したが,9/14のインボイス戦を最後に中継ぎに転向を命ぜられることに・・・ 秋季キャンプではヤクルト版JFKとして,五十嵐・高井とともに強力中継ぎトリオを形成すべく,首脳陣もその適性に期待をかけることとなった. |
4年目-2004年- |
プロ入り4年目。まさに不本意な、最低の一年となった。 キャンプからオープン戦までは好調だった。初の開幕一軍。そして何と開幕第2戦目の先発に抜擢された。相手は昨年最も相性の良かった横浜。無難な立ち上がりを見せるも、4回表金城に2ラン本塁打、7回表に相川にタイムリーを浴びたところで、降板。チームはラミレスの劇的な逆転本塁打で見事開幕2連勝を飾るも、鎌田にとっては、これが苦悩のシーズンの始まりだった。 4/10巨人戦(東京ドーム)。4月月間MVP・阿部への痛恨の一発に沈む。4/17阪神戦(神宮)。4月月間MVP福原との投げ合いに敗れ、今季初黒星。5/2阪神戦(甲子園)初回アリアスへの満塁本塁打が響き2連敗。5/9横浜戦(ひたちなか)では、あいにくの天候も影響したか6回4失点で、勝ち星に恵まれない。 5/16巨人戦(東京ドーム)では2回途中で7失点の先発・マウンスを緊急リリーフするも、巨人打線の餌食となり、2/3イニングで4失点と火に油を注ぐ内容。首脳陣はマウンスでなく、鎌田に対し2軍調整に命じた。 ファーム合流後、5/23ロッテ戦(戸田)先発登板後、突如登板機会がなくなる・・・。軽い右肩痛に悩まされたとのことで、6月1ヶ月間はフォーム改造にも着手。戦線復帰は7月に入ってから。 一軍に再合流を果たした頃はもう8月に入っていた。そして劇的な試合が続く。まずは復帰後初先発となった8/8の横浜戦(横浜)。7回1失点と文句なしの好投を演じるも、打線が相手先発・加藤を打ちあぐねる。結局8回裏を終えて0-1と1点ビハインド。9回表、マウンドにはハマの大魔神・佐々木主浩。誰もが万事休すと思ったが・・・・土橋・岩村・古田の奇跡の3連発!敗戦投手は免れた。 中5日で登板した8/14の中日戦(神宮)は前回の鬱憤晴らしかと打線の援護を貰い、8回途中で降板するも、チームは7-2と大量リード。あとはリリーフ陣に託したが・・・田中が、杉本が、河端が、、7-5。9回は守護神・五十嵐亮投入で逃げ切りを図るも、火のついた恐竜打線を止められず、一気5失点で7-10の信じられない逆転負け。 2試合の好投が勝利に結びつかない。ようやく最初にして最後の勝利を挙げたのは、8/20の阪神戦(神宮)。自ら先制タイムリーを放つと、ピッチングも要所を締め、リリーフ陣も踏ん張り、お立ち台にも上がる。壇上で古田に「もっとしっかりしてもらわないと」と叱責される・・・・ しかしその後は、8/26広島戦(広島)は3回5失点、9/3横浜戦(横浜)は4回6失点と、2試合連続で序盤に崩れ、遂に先発ローテーションの座を剥奪され、以降はリリーフとして、ブルペン待機の日々を送る。 プロ野球史上初のストライキに球界が揺れた9月。マッジク対象チームとして負けられない試合を余儀なくされる。勝ち試合には坂元-河端-石井-五十嵐亮の勝利の方程式が展開され、鎌田の役割は専ら敗戦処理・・・ 終わってみれば、一年間を通し16試合の登板に留まり、成績は1勝3敗。防御率も6.26と、まさにプロ入り以降最悪のシーズンであった。 年齢的にも中堅に遡り、そろそろオフへの危機感を抱いてシーズンを送らなければならなくなってきた感も否めない。 |
3年目-2003年- |
「計算できる投手はホッジス・藤井・石川のみ」キャンプ・オープン戦を通して、評論家のヤクルト投手陣に対する評価は厳しかった。鎌田は、ルーキー・高井とともにこれらの投手に続く投手として期待されていた。課題のオープン戦でもそれなりに結果を残してきた。ところが開幕一軍は果たすことは出来なかった。 開幕から5試合目。先発3本柱の一人早稲田大学の先輩でもある藤井秀悟が試合中に左肘断裂という大怪我に見舞われる。チームにとっての危機であったが、逆に鎌田にとっては大きな転機であった。藤井の抹消と同時に鎌田は一軍登録され、チーム9試合目の今季初登板は先発であった。開幕から好調の阪神相手に5イニングを3失点。まずまずの出来であったが、それ以降中継ぎ降格を命ぜられる。その間およそ3ヶ月弱。セットアッパー石井弘寿を欠く投手陣の中、同じくスワローズの誇るもう一人のセットアッパー五十嵐亮太に繋ぐまでの、重要な局面を鎌田が背負っていた。その役割故に、失点は即チームの敗戦に繋がる。好投をする日が多かったが、同点からの痛恨の失点が、チームの負けに繋がってしまうことが2度あったが、全般的には中継ぎとしての役割を充分に果たしていた。そして、2002年の最多勝投手であるホッジスの不調も手伝い、鎌田に再び先発の機会が訪れる。 6/22横浜戦。今季2度目の先発登板となったこの試合で、鎌田は横浜打線を相手に見事6安打完封勝利を収めた。以降完全にローテーションに定着した鎌田は、以後10試合で、スワローズ打線が苦手とする巨人・上原との投げ合いによる競り負けが2度、2死無走者から相手投手への不用意な一球からピンチを広げた敗戦、自身2度目となる完封勝利など、勝ちと負けをそれぞれ5つずつ繰り返した。 シーズン終盤の9/18。足の故障でおよそ1ヶ月戦列を離れたが、チーム139試合目に三たび先発の座を与えられ、3年目のシーズンはいずれも自己最高となる、30試合登板、6勝7敗でシーズンを終えた。 4年目となる2004年は、フルシーズンを通してローテーションを守れるよう、秋期キャンプでも”指定強化選手”に指名され、年俸も2倍超えとなる3000万円と飛躍し、球団、首脳陣およびファンの期待はようやく高まってきたと言えるだろう。 |
2年目-2002年- |
石井一久のメジャー移籍により、ポッカリと空いたローテーション。その穴を埋める一番手として名前が挙がっていたのは鎌田であった。ところが、キャンプ序盤に若松監督から調整不足を指摘され、”最初で最後のチャンス”と言われた3/8のオープン戦(中日戦)では、4イニングで3本塁打を浴び、4失点と散々な結果。即刻二軍落ちを命ぜられた。 二軍では、4月〜6月にかけて、ローテーションを守り通していた。そして7/6。ついに一軍からお呼びがかかった。そして登録されたその日に、先発萩原の2回KOを受けて、3回を2安打無失点に抑え、打線の強力援護も受け、嬉しいプロ2勝目が飛び込んできたのだった。 この好投をきっかけに、オールスター以降は先発ローテーション入りを果たす。7/25横浜戦では立ち上がりを攻められ、プロ初黒星も、7/31広島戦は6回無失点。8/11横浜戦は8回1失点で、順調に勝利を重ねる。しかし、プロの世界はそれほど甘くなく、以降3度の先発登板では、黒星こそつかなかったものの、打ち込まれるケースが目立つようになった。 9/7神宮での中日戦。1回2/3で6失点でプロ2敗目を喫した翌日、右肩痛を訴え、登録を抹消された。以降シーズン中の一軍復帰はならなかった。 終盤の戦線離脱はあったものの、粘り強いピッチングで3勝(2敗)をマーク。秋季キャンプでも気合の入った練習ぶりを見せアピール十分。3年目となる来季は一年を通して先発ローテーション守れるような選手になるべく、飛躍を遂げたい。 |
ルーキーイヤー2001年 |
キャンプではドラフト一位平本とともに一軍スタート。しかし評価はあまり芳しいものではなく、開幕一軍当落線上にいた鎌田投手。最終テストとなった3/20巨人とのオープン戦で4回2安打4奪三振1失点という結果を残し、ルーキーとしてただ一人、開幕一軍を果たした。 プロ初登板は4/4思い出の神宮で。巨人相手に1回0/3を2安打1失点。6日には中日戦で二度目の登板。しかし、首脳陣の「実戦経験を積め」との判断から、翌7日に入来と入れ替わりで二軍落ちとなる。 4/14。思わぬアクシデントが鎌田投手を襲う。左手薬指骨折…。当初は全治三ヶ月と診断されたが、脅威の回復力で約一ヵ月後の5/20には二軍戦に登板する。怪我も完治し二軍のローテーションの一角を担うようになっていた。 9/12。疲れの見えてきた寺村、五十嵐に代わり、高橋一とともに再び一軍へ昇格する。ただチームは4年ぶりの優勝に向かっていたため、出番は全くなかった。そんな鎌田投手にようやく転機がやってくる。 チームが優勝へのマジックを一桁にしてから生みの苦しみを味わっていた状況下で、7連戦の過密日程。先発が一枚足りない。石井一の腰の状態も今ひとつということで、若松監督は大胆にも先発起用して見せたのだった。結果はまさに圧巻!六回二死まで中日打線をノーヒットノーランの快投で、プロ入り初先発初勝利を飾った。 その後は先発こそなかったものの、中継ぎとして登板した試合はいずれも無失点に抑え、一年目は通算15回1/3をプロ初登板時の1失点だけの防御率「0.59」という見事な成績を収めたのである。 早大の1年先輩の藤井は二年目で”最多勝”。今度は鎌田が二年目の飛躍を遂げられるか? |
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